LOGIN食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。
鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。
空気が違う。匂いが違う。音が違う。
ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。
まだ午前中だ。
ほんの数時間前まで、湊は路地裏で取り立て屋に追い詰められていた。それが今、こんな場所にいる。シャワーを浴びて、温かい食事を与えられて、清潔な服を着ている。
俺は今、どんな人の家にいるんだ。
現実感がない。さっきまでの出来事が、すべて夢だったのではないかと思える。でも、目の前の景色は本物だ。柔らかいソファも、磨かれた床も、窓の向こうに広がる青い空も、すべてが確かにここにある。
これほどの高層階に住める人間なのだ。
取り立て屋たちが「タカミヤホールディングス」という名前を聞いた瞬間、明らかに態度が変わった。湊はその会社の名前を聞いたことがなかったが、彼らが怯むほどの存在なのだろう。
窓辺に立って、景色をぼんやりと見つめていると、背後から声をかけられた。
「朝倉くん」
振り返ると、鷹宮がタブレット端末を手に近づいてきた。
さっきシャワーを勧めてくれたとき、食事を用意してくれたとき、鷹宮はずっと穏やかだった。でも、その目は冷静で、感情が読めない。何を考えているのか、まったく分からなかった。
「僕はもうすぐ仕事に行かなければならない。その前に少し話をしたいんだが、いいか」
「……はい」
湊は頷いた。契約の話だろう。住み込みで働くと言われた以上、その条件を聞かなければならない。
「座って」
鷹宮はソファに腰を下ろし、湊にも座るよう促した。
言われるまま、向かい側に座る。鷹宮は長い足を組んで、じっと湊の顔を見つめてきた。
視線が、重い。
逃げ場のない距離で、まっすぐに見られている。目を逸らしたいのに、逸らせなかった。
「体調はどうだ」
「……え?」
契約内容の話をされると思っていたのに、急に自分の体調を聞かれて、湊は目を見開いた。
「君はずっとネットカフェで過ごしていたんだろう。今朝、少し食べただけでは、体調が戻るとは思えない」
当たり前のことを、当たり前のように指摘された。観察されている、と感じた。路地裏で会ったときから――いや、もしかしたらそれより前から、この人は湊のことを見ていたのかもしれない。
「……特に、悪くはありません」
嘘だった。
身体の節々は痛むし、頭もぼんやりする。久しぶりに食事を取ったせいか、胃が重い。でも、体調が悪いと言えば、「契約は結べない」と言われるかもしれない。それだけは避けたかった。
ここを追い出されたら、もう行く場所がない。
「そうか」
鷹宮は、湊の嘘を見抜いているような目をしていた。でも、追及はしなかった。
「では、ここ数日の生活ぶりを教えてくれ」
「暮らし……ですか」
「食事の頻度、睡眠時間、体調の変化。把握しておきたい」
把握。
その言葉が、妙に引っかかった。
でも、隠す理由もない。住む場所もお金もないことは、さっき車の中で伝えている。今さら取り繕っても仕方がなかった。
「ネットカフェで……しばらく暮らしてました。食事は、一日一回くらいで……」
言いながら、だんだんと恥ずかしくなってきた。声が小さくなる。顔が熱くなる。
情けない。こんな惨めな生活を、この人の前で口にしている。
「そうか」
鷹宮は、責めるような口調ではなかった。ただ、淡々と事実を受け止めているようだった。
「胃腸が弱っているだろうな。しばらくは消化のいい食事を用意する」
湊は顔を上げた。
「え……?」
「食事の管理は僕がする。君は言われたものを食べればいい」
当然のように言われた。
ありがたい、と思った。同時に、どこかがざわついた。
――食事の管理。
その言葉が、頭の中でこだました。管理される。食べるものを、決められる。
でも、それはきっと、心配してくれているからだ。
そう思い込もうとした。
「それで、君の借金のことなんだが」
鷹宮が、本題に入った。
「詳しく教えてくれるか」
借金。
その言葉を聞くだけで、胸が締めつけられた。
肩代わりしてくれると言っていた。だから詳しく話す必要がある。分かっている。分かっているのに、喉が詰まって声が出なかった。
湊は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「俺……婚約していた人がいて……」
「それが逃げた相手か」
直接的な物言いだった。
胸に、棘が刺さったような痛みが走った。
「……はい」
「その女性は、どんな人だったんだ」
「……女性ではなくて」
湊は、俯いたまま言った。
「男性、だったんですけど……」
沈黙が落ちた。
鷹宮の視線が、湊の顔に注がれているのが分かる。顔を上げられなかった。どんな目で見られているのか、確認するのが怖かった。
「日本では同性婚はできないが」
鷹宮の声は、驚きも軽蔑もなく、ただ事実を確認するような響きだった。
「はい、知ってます。海外で挙式をして、一生一緒にいようって……約束したんです」
喉が熱くなった。
「それなのに、急にいなくなって。将来のために貯めてた貯金を、全部持ち逃げされて……」
声が震えた。
恥ずかしさで、消えてしまいたかった。結婚詐欺に遭った。愛していると思っていた相手に、騙されていた。信じていた未来が、全部嘘だった。
こんな話を、さっき出会ったばかりの人間にしている。
惨めだ。情けない。自分が、どうしようもなく愚かに思えた。
「借金の内訳を教えてくれ」
鷹宮は、感情を挟まずに言った。責めもしない。慰めもしない。ただ、必要な情報を求めている。
それが、かえって楽だった。
「えと……銀行のカードローンが三社で、それぞれ五十万ずつ。クレジットカードのキャッシングが合計三百万。あと……消費者金融から三百万です」
「七百五十万か」
鷹宮が、静かに言った。
数字にされると、改めて重さが胸にのしかかった。七百五十万。途方もない金額だ。湊の年収の何倍にもなる。
「すべて君の名義か」
「……はい」
元婚約者に言われるがまま、借りたお金だった。
疑わなかった。二人の将来のためだと言われて、何の疑問も持たなかった。
――俺は、本当に馬鹿だ。
自己嫌悪で、吐き気がした。
鷹宮はタブレット端末を開き、何かを入力し始めた。長い指が、画面の上を滑っていく。
「さっきも言ったが、君を助けることは簡単だ」
入力を続けながら、鷹宮は言った。
「ただ、曖昧なままは嫌いなんだ」
入力を終えると、タブレット端末を湊の前に差し出した。
「この契約内容でいこうと思う。目を通してくれ」
湊は、恐る恐る画面を覗き込んだ。
びっしりと並んだ文字。契約書のフォーマット。見るだけで、目眩がしそうだった。
でも、読まなければならない。
目を凝らして、条項を追っていく。
――「住み込み」
――「雑務および秘書業務の補助」
――「生活費は鷹宮が支出」
――「外出は事前申告制」
――「連絡先の整理(スマートフォンなどの連絡先)」
――「借金は鷹宮が肩代わりし、労働により返済」
一つひとつの言葉が、頭の中で反響する。
「あの……」
湊は、一つの項目で指を止めた。
「この『連絡先の整理』って……」
「細かいことは気にするな」
鷹宮は、穏やかな声で言った。
「君がここで安心して過ごすために必要なことだ」
安心して過ごすために。
その言葉に、反論できなかった。
――気になる。
何を整理するのか。誰との連絡を、どうするのか。
でも、聞けなかった。
鷹宮の目を見ると、それ以上の質問を許さない空気が漂っていた。穏やかなのに、譲らない。さっき、取り立て屋を追い払ったときと同じだ。
――拒否する資格は、俺にはない。
そう思った。
ここを拒めば、待っているのは破滅だ。路上生活か、取り立て屋に追われ続ける日々か、あるいはもっと悪いことか。
多少のことは、目を瞑るしかない。
この人は、俺を助けてくれようとしている。それだけは、確かなはずだ。
「……分かりました」
湊は、小さく頷いた。
「特に、問題ないと思います」
声が震えていないか、自分でも分からなかった。
「それではサインを」
鷹宮が、タッチペンを差し出した。
「そこの枠内に」
湊はペンを受け取った。
画面の上に、署名欄がある。空白の枠。そこに名前を書けば、契約は成立する。
指先が、わずかに震えた。
――これでいいのか。
本当に、これでいいのか。
頭の片隅で、警告のようなものが鳴っている。でも、その音を無視した。
他に、選択肢がないのだから。
ペン先が、画面に触れた。
朝倉湊。
自分の名前を、ゆっくりと書いた。
書き終えた瞬間、妙な感覚があった。
安堵。そして、どこかで何かが閉じる音。
鷹宮が、タッチペンを受け取った。画面をじっと見つめている。
「これで契約は終了だ」
そう言って、鷹宮は目を細めた。微笑んでいるように見えた。
「大丈夫。ここにいる限り、君は守られる。何も心配することはない」
優しい言葉だった。
なのに、どうしてだろう。胸の奥が、きゅっと締まるような感覚があった。
「……よろしくお願いします」
湊は、頭を下げた。深く、深く。
「君の生活は、僕が預かるから」
鷹宮が、静かに言った。
預かる。
その言葉が、耳に残った。
鷹宮はソファから立ち上がった。スーツの皺を軽く払い、腕時計を確認する。
「今日は家でゆっくりしていて。明日から仕事を始めてもらう」
「はい」
「君の部屋はゲストルームを使ってくれ。必要なものは揃っているはずだ」
必要なもの。揃っている。
また、違和感が胸をかすめた。
「今日はとにかく休め。身体を回復させることが先だ。僕は今から仕事に行くから、夜には戻る」
鷹宮は、それだけ言って部屋を出ていった。
玄関のドアが閉まる音が、静かに響いた。
*
一人になった部屋は、驚くほど静かだった。
湊は、しばらくソファに座ったまま動けなかった。
契約した。
サインした。
自分の名前を書いて、この人の元で働くことを決めた。
――これで、よかったんだ。
そう思おうとした。思わなければ、立っていられなかった。
時計を見ると、まだ昼前だった。今朝、ネットカフェを出てからまだ数時間しか経っていない。それなのに、まるで何日も過ぎたような気がする。
ゆっくりと立ち上がり、指定されたゲストルームに向かった。
ドアを開けると、清潔な空間が広がっていた。
部屋の中央にダブルベッドが据えられている。白いシーツ、ふかふかの枕、軽そうな掛け布団。窓からは昼の陽光が差し込んでいる。
ネットカフェの狭い個室とは、比べものにならなかった。
クローゼットを開けた。
中には、シンプルだが質のよさそうなシャツやパンツがかけられていた。グレー、白、紺。落ち着いた色ばかり。
一枚、手に取ってみる。
身体に当てた。
――サイズが、ぴったりだ。
心臓が、どくりと跳ねた。
さっきシャワーの後に着せられた服も、サイズがぴったりだった。
どうして。
俺の身体のサイズを、この人はどうやって知った。
今朝、急に連れてこられたはずなのに。いつ用意したのだろう。まるで——俺がここに来ることを、最初から分かっていたみたいだ。
背筋が、ぞくりとした。
――考えすぎだ。
そう言い聞かせた。たまたまだ。このくらいのサイズなら、誰にでも合う。大企業の社長なら、来客用の服くらい用意してあるのかもしれない。
でも、違和感は消えなかった。
胸の奥に、小さな棘のように残っている。
服をハンガーに戻して、ベッドに近づいた。
シーツに触れる。柔らかい。清潔な匂いがする。
座ってみた。身体が沈む。雲の上にいるみたいだ。
横になってみた。
天井を見上げる。白い天井。染みも汚れもない。
――これからは、何も心配せずにここで過ごせるんだ。
そう思うと、涙が出そうになった。
追われない。怯えなくていい。明日の宿代を心配しなくていい。食べるものがないと焦らなくていい。
ありがたい。
本当に、ありがたい。
なのに――胸の奥が、少し苦しかった。
何かを失った気がする。何を失ったのかは、分からない。でも、さっきサインをした瞬間から、何かが変わってしまった気がする。
鷹宮が帰ってくる夜まで、何もすることがない。
スマートフォンを取り出した。充電は、さっきさせてもらった。画面を開く。
通知がいくつか来ている。知らない番号からの不在着信。督促のメッセージ。見たくないものばかりだ。
――これも、整理されるのだろうか。
「連絡先の整理」。
あの言葉が、頭をよぎった。
整理って、何を。誰との連絡を、どうするんだろう。
聞けばよかった。でも、聞けなかった。聞いてはいけない気がした。
スマートフォンを、枕元に置いた。
目を閉じる。
布団を被る。清潔な匂いが、鼻をくすぐる。
温かい。柔らかい。安全な場所にいる。
何日ぶりだろう、こんなにちゃんとしたベッドで横になるのは。
身体の力が、すうっと抜けていく。
安心だ。
守られている。
――でも、それは本当に安心なのだろうか。
その疑問が浮かんだ瞬間、意識が遠のいた。
疲れ切った身体が、深い眠りの中に落ちていく。
夢を見た。
檻の中にいる夢だった。
檻は金でできていて、きらきらと輝いていた。外から誰かが見ている。誰かの声が聞こえる。
――大丈夫。ここにいる限り、君は守られる。
その声は、優しかった。
優しいのに、檻の扉はどこにもなかった。
朝の光が、キッチンに差し込んでいた。 窓から見える空は、澄んだ青色だった。雲一つない、穏やかな朝。 初めて、雄一と並んでキッチンに立った。 手伝うといい出したものの、雄一のあまりの手際の良さに、その場に立ち尽くすしかなかった。逆に手出しすれば、邪魔になってしまう。 野菜を切る音が、リズミカルに響いている。フライパンが温まる音。卵を溶く音。 雄一の動きは、無駄がない。まるで、何年も同じ動作を繰り返してきたかのような自然さ。 湊は、その姿を見つめていた。 昨夜のことが、まだ頭に残っている。書斎での会話。雄一の過去。あの悲しそうな目。 そして、今朝の抱擁。 少しずつ、壁が溶けていく感覚があった。「ずっと思ってたんですけど、雄一さんっていつから自炊してるんですか?」 雄一は、手元から目線を外さずに答えた。「僕は大学時代にひとり暮らしをしていたからね。そのときからだ」「そうですか……。すごいですね」「大したことなどしていない。食べることは身体を作るもとになるから、きちんと整えたいだけだ」 確かに、いわれればその通りだ。人の身体は、食べたもので作られている。食材を選んで丁寧に調理すれば、中になにが入っているか自分でも把握できるし、健康維持に役立つ。 湊は、食べることに関して無頓着だった。食べられればいいと思っていたし、お金がなければ食べなければいい。そんなふうだったから、体調を壊しやすかったのかもしれない。 ネットカフェで暮らしていたころを思い出した。コンビニのおにぎりと、カップ麺。それが、湊の食事だった。 あのころの自分と、今の自分は、全く違う。 雄一と出会って、変わった。「雄一さんはすごいですね……。俺なんて自炊したことないから……」「これからやればいい。僕が教えるから」 雄一は包丁を握っていた手を休め、湊に目を向けた。口角が少し上がって
湊は、身体中が痛くて目が覚めた。 まるでネットカフェで寝起きしていたころのように、身体がだるい。首が凝っている。腰も痛い。全身が軋んでいる。 部屋の中は薄暗く、夜明け前だということが分かった。 薄暗い中、目を凝らして天井を見つめた。そこは、いつも見ているゲストルームではなかった。 昨日、雄一の書斎で身体を合わせたのだった。そのままソファで寝てしまったらしい。 記憶が、ゆっくりと戻ってくる。 雄一の過去を聞いた。母親と父親を亡くし、義母と弟にすべてを奪われ、恋人まで奪われたという話だ。 だから雄一は、大切なものを囲い込もうとするのだ。 失う前に、手元に置いておきたいのだ。 その気持ちが、痛いほど分かった。 雄一の姿を探すと、湊の足元のソファに背中を預けて、床に座ったまま眠っていた。 そんな姿勢だと、身体が痛くなるだろうに。 ベッドもソファもあるのに、なぜ床に座って寝ているのだろう。 湊は、その姿を見て、胸が締め付けられた。 熱烈に肌を合わせたのが嘘のような距離感だった。 昨夜は、あんなに近かったのに。あんなに熱く繋がったのに。 今は、まるで別々の世界にいるようだ。 それはきっと、雄一の心の中にある不安を表しているのだろう。 雄一は、常に不安なのだ。 義母と弟に大切なものを奪われ続けてきた。だからこそ、大切なものを囲い込もうとする。 でも同時に、どんなに囲っても、いつかは奪われると思っている。 どんなに愛しても、いつかは去っていくと思っている。 だから、近づきすぎることを恐れている。 けれど今、湊は雄一の腕の中にいない。 雄一ががんじがらめに縛りつけていたものが、少しゆるんだのだと感じた。 以前の雄一なら、湊を腕の中に閉じ込めて眠っていただろう。離さないように、逃げられないように。 でも今は、床に座って、湊から少し離れた場所で眠っている。
ダイニングテーブルの片隅には、ロジカルシンキングに関する本が積み上げられていた。 雄一の役に立ちたくて、ロジカルシンキングを勉強したいと思った。まずは論理的な考え方を身につける必要があると感じたからだ。「俺、考えをまとめるのが苦手で……」 雄一にそう溢すと、ロジカルシンキングを学ぶことを勧められた。「それなら、僕も何冊か本を持っている」 そういって、書斎から本を持ってきてくれた。社長は、自分の事業だけでなく幅広い知識が必要だと考えており、日頃から学んでいるのだという。 最初は、帰納法や演繹法などといわれてもちんぷんかんぷんだった。でも、本を読み進めていくうちに、なんだか面白くなってきた。 今まで、頭の中でどのような処理が行われているかなんて、考えもしなかった。脳の働きってすごいな、と感心しながら学んでいるうちに、自分が今どんな思考をしているのかがわかるようになってきた。それがとても面白い。 湊は、ソファに座っている雄一に目を向けた。 彼は真剣にタブレット端末を見ている。最近知ったのだが、雄一は読書家らしい。電子書籍で本を読み、新聞にもオンラインで目を通しているといっていた。その中には業界紙も含まれているそうだ。「紙は場所を取るからな」 その言葉を聞くと、やはり雄一は効率的だと思う。 そんな雄一が、眉間に皺を寄せながらタブレット端末を見つめている。きっとなにか気になる記事があったのだろう。その目は、とても真剣だった。 以前だったら、こんな自由な時間を持てるなんて思わなかっただろう。常に雄一に監視されていると思い込んでいたから、なにをするにもびくびくしていた。 でも今は、違う。 幸せだな。 湊は口元を緩めて、再び手元の本に目を落とした。* 湊は、全ての本を読み終えて、伸びをした。 ソファに目を向けると、雄一はそこにいなかった。「雄一さん?」 声をかけてみたが、返事はない。トイレへ行っているのかと思って見に
目が覚めると、真っ白な天井が目に入った。 朝のやさしい光が、カーテンの隙間から漏れている。 何度も、この部屋で目を覚ました。自由がなくて息苦しくなり、逃げ出したこともある。けれど、結局はまた戻ってきた。 以前は息苦しさを感じていたのに、嘘のように今はそれがない。 それはきっと、昨日「自由」を得たからだ。いや、「自由」という名の囲いの中にいると知った、といったほうがいいのかもしれない。 もうこれからは、怯えて生きる必要などない。借金取りに追われることも、相馬のことを思い出して悲しむこともない。 過去は、処理された。 その事実が、湊の心を軽くしていた。 ベッドから身体を起こした。 あたりは静寂に包まれていた。部屋はしんと静まり返り、なんとなく寂しく、冷たく感じた。まるで氷の中に閉じ込められたような感覚だった。 以前なら、この静けさが怖かった。閉じ込められている、と感じていた。 でも今は、違う。 雄一の「君は自由になれる」という言葉が、頭の中で何度も繰り返される。 本当に湊は自由になれるのだろうか。この囲われた生活の中で、自由を手に入れられるのだろうか。 それは、わからない。 けれど、雄一に守られていることだけは確かだった。 守られている。その言葉を、湊は初めて素直に受け入れることができた。 以前は「囲われている」と感じていた。縛られている、閉じ込められている、と。 でも今は、少し違う見方ができるようになっていた。 雄一は、湊を傷つけようとしているわけではない。湊を苦しめようとしているわけではない。 ただ、不器用なのだ。愛し方が、わからないのだ。 表情が乏しくて、言葉が少なくて、感情の伝え方を知らない人。 でも、その奥には、本物の愛情がある。湊を大切に思う気持ちがある。 それを、湊はようやく理解し始めていた。 守られながら、なにかできるかもしれない。 そう思った瞬間、心が
もうすっかり、雄一のそばでの生活にも慣れてきた。 最初はなにもせずに、ただそばにいるだけだった。雄一についていって、会議を聞いて、商談を見て、移動して、帰ってくる。それだけの毎日。 でも、湊の性格上、じっとしているのが苦手だ。なにかしていないと落ち着かない。手持ち無沙汰でいると、自分が価値のない存在に思えてくる。 だから、雄一に頼み込んだ。「なにか、仕事をさせてください」 最初は断られた。「君はなにもしなくていい」と。でも、湊は引き下がらなかった。何度も、何度も頼んだ。 そして、ようやく許可が出た。 職場の執務室で、お茶を出したり書類を整理したりする雑務。本当の秘書の仕事ではないけれど、なにもしないよりはずっとマシだった。「仕方ないな」 雄一はそういった。口調は呆れたようなのに、表情はどこか嬉しそうだった。 それも、他人が見てもまったくわからないほどの変化だった。少しだけ目尻が下がって、口角が上がっている。湊だから気づける、微かな変化。 雄一は、湊が出奔する以前よりも表情が豊かになったように感じる。こうやって嬉しそうな顔をしてくれる。困った顔をする。笑う。 もちろん、他人にはわからないほどの表情の変化だと思う。でも、湊にはわかる。 それが、少し嬉しかった。 執務室での仕事は、雑用でも任せてもらえるからいい。 お茶を入れて、「ありがとう」といわれる。書類を整理して、「助かった」といわれる。小さなことだけど、役に立っているという実感がある。 三崎とも、少しずつ話すようになった。雄一が三崎に対して嫉妬したことがあることから、最初は警戒していたけれど、三崎は意外と親切だった。仕事のやり方を教えてくれたり、わからないことを説明してくれたり。 ただ、時々、三崎の目が鋭くなることがあった。なにかを観察しているような、品定めしているような目。 それがなにを意味するのか、湊にはわからなかった。 執務室での仕事は良かったけれど、外出だけは苦痛だった。 取引先との商
雄一のもとに戻って、朝を迎えた。 いつもと同じ時間に起きてシャワーを浴び、雄一の作った朝食を食べた。前と変わらない朝だった。 テーブルには、完璧に盛り付けられた和食が並んでいる。焼き魚、味噌汁、漬物、ご飯。どれも美味しそうで、栄養バランスも考えられていた。 雄一は、湊のためにこれを作ってくれた。毎朝、湊より早く起きて、黙々と準備をしてくれている。 そのことに、感謝すべきなのだろう。でも、湊の心は複雑だった。 自分ではなにもできない。なにもさせてもらえない。ただ、用意されたものを受け取るだけ。 それが、湊の役割だった。「今日は僕と一緒に外回りについてきてくれ」 今までは、平日であっても「今日の予定は?」と聞かれていた。秘書の仕事を告げると、雄一は満足げに頷いていた。 しかし今日は、予定を聞かれることなく、雄一から今日の予定を告げられた。 湊の予定ではなく、雄一の予定に組み込まれている。湊は雄一のスケジュールの一部になっていた。「分かりました」 湊は、頷くしかなかった。「必要なものがあれば僕が買うから、言って」「今のところ、特にありません」「そうか」 雄一は頷いた。口元がなんとなく緩んでいるのは、湊がここにいるからだろうか。 湊がそばにいるだけで、うれしいのだろうか。 そう思うと、複雑な気持ちになった。うれしいような、苦しいような。「そうだ。これ」 雄一が、スマートフォンを取り出した。 湊が逃げたときに、この部屋に置いていったものだ。位置情報を追跡されないように、わざと置いていった。「ここに忘れていただろう? 初期化しておいたから」「えっ?」 その言葉に、ぞっとした。 初期化。つまり、中身は全て消えたということだ。連絡先も、メッセージの履歴も、写真も、アプリも。全て、なくなった。 西村の連絡先も。山田の連絡先も。外の世界との繋がりが、全て消えた。







