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第二話 雇用契約

Author: 海野雫
last update Last Updated: 2026-02-02 19:00:54

 食事を終えた湊は、窓辺に立っていた。

 鷹宮の住む高級マンションは、湊がこれまで暮らしてきた場所とはまるで別世界だった。ベランダに面した窓は天井近くまで届く一枚ガラスで、都心のビル群を眼下に見下ろすことができる。床は艶やかなフローリングで、素足で歩くと、冷たくも温かくもない、ちょうどいい温度が伝わってくる。

 空気が違う。匂いが違う。音が違う。

 ついさっきまでいたネットカフェの消毒液の匂いも、路上の排気ガスの匂いも、ここにはない。代わりにあるのは、かすかなアロマの香りと、静けさだけだった。

 まだ午前中だ。

 ほんの数時間前まで、湊は路地裏で取り立て屋に追い詰められていた。それが今、こんな場所にいる。シャワーを浴びて、温かい食事を与えられて、清潔な服を着ている。

 俺は今、どんな人の家にいるんだ。

 現実感がない。さっきまでの出来事が、すべて夢だったのではないかと思える。でも、目の前の景色は本物だ。柔らかいソファも、磨かれた床も、窓の向こうに広がる青い空も、すべてが確かにここにある。

 これほどの高層階に住める人間なのだ。

 取り立て屋たちが「タカミヤホールディングス」という名前を聞いた瞬間、明らかに態度が変わった。湊はその会社の名前を聞いたことがなかったが、彼らが怯むほどの存在なのだろう。

 窓辺に立って、景色をぼんやりと見つめていると、背後から声をかけられた。

「朝倉くん」

 振り返ると、鷹宮がタブレット端末を手に近づいてきた。

 さっきシャワーを勧めてくれたとき、食事を用意してくれたとき、鷹宮はずっと穏やかだった。でも、その目は冷静で、感情が読めない。何を考えているのか、まったく分からなかった。

「僕はもうすぐ仕事に行かなければならない。その前に少し話をしたいんだが、いいか」

「……はい」

 湊は頷いた。契約の話だろう。住み込みで働くと言われた以上、その条件を聞かなければならない。

「座って」

 鷹宮はソファに腰を下ろし、湊にも座るよう促した。

 言われるまま、向かい側に座る。鷹宮は長い足を組んで、じっと湊の顔を見つめてきた。

 視線が、重い。

 逃げ場のない距離で、まっすぐに見られている。目を逸らしたいのに、逸らせなかった。

「体調はどうだ」

「……え?」

 契約内容の話をされると思っていたのに、急に自分の体調を聞かれて、湊は目を見開いた。

「君はずっとネットカフェで過ごしていたんだろう。今朝、少し食べただけでは、体調が戻るとは思えない」

 当たり前のことを、当たり前のように指摘された。観察されている、と感じた。路地裏で会ったときから――いや、もしかしたらそれより前から、この人は湊のことを見ていたのかもしれない。

「……特に、悪くはありません」

 嘘だった。

 身体の節々は痛むし、頭もぼんやりする。久しぶりに食事を取ったせいか、胃が重い。でも、体調が悪いと言えば、「契約は結べない」と言われるかもしれない。それだけは避けたかった。

 ここを追い出されたら、もう行く場所がない。

「そうか」

 鷹宮は、湊の嘘を見抜いているような目をしていた。でも、追及はしなかった。

「では、ここ数日の生活ぶりを教えてくれ」

「暮らし……ですか」

「食事の頻度、睡眠時間、体調の変化。把握しておきたい」

 把握。

 その言葉が、妙に引っかかった。

 でも、隠す理由もない。住む場所もお金もないことは、さっき車の中で伝えている。今さら取り繕っても仕方がなかった。

「ネットカフェで……しばらく暮らしてました。食事は、一日一回くらいで……」

 言いながら、だんだんと恥ずかしくなってきた。声が小さくなる。顔が熱くなる。

 情けない。こんな惨めな生活を、この人の前で口にしている。

「そうか」

 鷹宮は、責めるような口調ではなかった。ただ、淡々と事実を受け止めているようだった。

「胃腸が弱っているだろうな。しばらくは消化のいい食事を用意する」

 湊は顔を上げた。

「え……?」

「食事の管理は僕がする。君は言われたものを食べればいい」

 当然のように言われた。

 ありがたい、と思った。同時に、どこかがざわついた。

 ――食事の管理。

 その言葉が、頭の中でこだました。管理される。食べるものを、決められる。

 でも、それはきっと、心配してくれているからだ。

 そう思い込もうとした。

「それで、君の借金のことなんだが」

 鷹宮が、本題に入った。

「詳しく教えてくれるか」

 借金。

 その言葉を聞くだけで、胸が締めつけられた。

 肩代わりしてくれると言っていた。だから詳しく話す必要がある。分かっている。分かっているのに、喉が詰まって声が出なかった。

 湊は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。

「俺……婚約していた人がいて……」

「それが逃げた相手か」

 直接的な物言いだった。

 胸に、棘が刺さったような痛みが走った。

「……はい」

「その女性は、どんな人だったんだ」

「……女性ではなくて」

 湊は、俯いたまま言った。

「男性、だったんですけど……」

 沈黙が落ちた。

 鷹宮の視線が、湊の顔に注がれているのが分かる。顔を上げられなかった。どんな目で見られているのか、確認するのが怖かった。

「日本では同性婚はできないが」

 鷹宮の声は、驚きも軽蔑もなく、ただ事実を確認するような響きだった。

「はい、知ってます。海外で挙式をして、一生一緒にいようって……約束したんです」

 喉が熱くなった。

「それなのに、急にいなくなって。将来のために貯めてた貯金を、全部持ち逃げされて……」

 声が震えた。

 恥ずかしさで、消えてしまいたかった。結婚詐欺に遭った。愛していると思っていた相手に、騙されていた。信じていた未来が、全部嘘だった。

 こんな話を、さっき出会ったばかりの人間にしている。

 惨めだ。情けない。自分が、どうしようもなく愚かに思えた。

「借金の内訳を教えてくれ」

 鷹宮は、感情を挟まずに言った。責めもしない。慰めもしない。ただ、必要な情報を求めている。

 それが、かえって楽だった。

「えと……銀行のカードローンが三社で、それぞれ五十万ずつ。クレジットカードのキャッシングが合計三百万。あと……消費者金融から三百万です」

「七百五十万か」

 鷹宮が、静かに言った。

 数字にされると、改めて重さが胸にのしかかった。七百五十万。途方もない金額だ。湊の年収の何倍にもなる。

「すべて君の名義か」

「……はい」

 元婚約者に言われるがまま、借りたお金だった。

 疑わなかった。二人の将来のためだと言われて、何の疑問も持たなかった。

 ――俺は、本当に馬鹿だ。

 自己嫌悪で、吐き気がした。

 鷹宮はタブレット端末を開き、何かを入力し始めた。長い指が、画面の上を滑っていく。

「さっきも言ったが、君を助けることは簡単だ」

 入力を続けながら、鷹宮は言った。

「ただ、曖昧なままは嫌いなんだ」

 入力を終えると、タブレット端末を湊の前に差し出した。

「この契約内容でいこうと思う。目を通してくれ」

 湊は、恐る恐る画面を覗き込んだ。

 びっしりと並んだ文字。契約書のフォーマット。見るだけで、目眩がしそうだった。

 でも、読まなければならない。

 目を凝らして、条項を追っていく。

 ――「住み込み」

 ――「雑務および秘書業務の補助」

 ――「生活費は鷹宮が支出」

 ――「外出は事前申告制」

 ――「連絡先の整理(スマートフォンなどの連絡先)」

 ――「借金は鷹宮が肩代わりし、労働により返済」

 一つひとつの言葉が、頭の中で反響する。

「あの……」

 湊は、一つの項目で指を止めた。

「この『連絡先の整理』って……」

「細かいことは気にするな」

 鷹宮は、穏やかな声で言った。

「君がここで安心して過ごすために必要なことだ」

 安心して過ごすために。

 その言葉に、反論できなかった。

 ――気になる。

 何を整理するのか。誰との連絡を、どうするのか。

 でも、聞けなかった。

 鷹宮の目を見ると、それ以上の質問を許さない空気が漂っていた。穏やかなのに、譲らない。さっき、取り立て屋を追い払ったときと同じだ。

 ――拒否する資格は、俺にはない。

 そう思った。

 ここを拒めば、待っているのは破滅だ。路上生活か、取り立て屋に追われ続ける日々か、あるいはもっと悪いことか。

 多少のことは、目を瞑るしかない。

 この人は、俺を助けてくれようとしている。それだけは、確かなはずだ。

「……分かりました」

 湊は、小さく頷いた。

「特に、問題ないと思います」

 声が震えていないか、自分でも分からなかった。

「それではサインを」

 鷹宮が、タッチペンを差し出した。

「そこの枠内に」

 湊はペンを受け取った。

 画面の上に、署名欄がある。空白の枠。そこに名前を書けば、契約は成立する。

 指先が、わずかに震えた。

 ――これでいいのか。

 本当に、これでいいのか。

 頭の片隅で、警告のようなものが鳴っている。でも、その音を無視した。

 他に、選択肢がないのだから。

 ペン先が、画面に触れた。

 朝倉湊。

 自分の名前を、ゆっくりと書いた。

 書き終えた瞬間、妙な感覚があった。

 安堵。そして、どこかで何かが閉じる音。

 鷹宮が、タッチペンを受け取った。画面をじっと見つめている。

「これで契約は終了だ」

 そう言って、鷹宮は目を細めた。微笑んでいるように見えた。

「大丈夫。ここにいる限り、君は守られる。何も心配することはない」

 優しい言葉だった。

 なのに、どうしてだろう。胸の奥が、きゅっと締まるような感覚があった。

「……よろしくお願いします」

 湊は、頭を下げた。深く、深く。

「君の生活は、僕が預かるから」

 鷹宮が、静かに言った。

 預かる。

 その言葉が、耳に残った。

 鷹宮はソファから立ち上がった。スーツの皺を軽く払い、腕時計を確認する。

「今日は家でゆっくりしていて。明日から仕事を始めてもらう」

「はい」

「君の部屋はゲストルームを使ってくれ。必要なものは揃っているはずだ」

 必要なもの。揃っている。

 また、違和感が胸をかすめた。

「今日はとにかく休め。身体を回復させることが先だ。僕は今から仕事に行くから、夜には戻る」

 鷹宮は、それだけ言って部屋を出ていった。

 玄関のドアが閉まる音が、静かに響いた。

 一人になった部屋は、驚くほど静かだった。

 湊は、しばらくソファに座ったまま動けなかった。

 契約した。

 サインした。

 自分の名前を書いて、この人の元で働くことを決めた。

 ――これで、よかったんだ。

 そう思おうとした。思わなければ、立っていられなかった。

 時計を見ると、まだ昼前だった。今朝、ネットカフェを出てからまだ数時間しか経っていない。それなのに、まるで何日も過ぎたような気がする。

 ゆっくりと立ち上がり、指定されたゲストルームに向かった。

 ドアを開けると、清潔な空間が広がっていた。

 部屋の中央にダブルベッドが据えられている。白いシーツ、ふかふかの枕、軽そうな掛け布団。窓からは昼の陽光が差し込んでいる。

 ネットカフェの狭い個室とは、比べものにならなかった。

 クローゼットを開けた。

 中には、シンプルだが質のよさそうなシャツやパンツがかけられていた。グレー、白、紺。落ち着いた色ばかり。

 一枚、手に取ってみる。

 身体に当てた。

 ――サイズが、ぴったりだ。

 心臓が、どくりと跳ねた。

 さっきシャワーの後に着せられた服も、サイズがぴったりだった。

 どうして。

 俺の身体のサイズを、この人はどうやって知った。

 今朝、急に連れてこられたはずなのに。いつ用意したのだろう。まるで——俺がここに来ることを、最初から分かっていたみたいだ。

 背筋が、ぞくりとした。

 ――考えすぎだ。

 そう言い聞かせた。たまたまだ。このくらいのサイズなら、誰にでも合う。大企業の社長なら、来客用の服くらい用意してあるのかもしれない。

 でも、違和感は消えなかった。

 胸の奥に、小さな棘のように残っている。

 服をハンガーに戻して、ベッドに近づいた。

 シーツに触れる。柔らかい。清潔な匂いがする。

 座ってみた。身体が沈む。雲の上にいるみたいだ。

 横になってみた。

 天井を見上げる。白い天井。染みも汚れもない。

 ――これからは、何も心配せずにここで過ごせるんだ。

 そう思うと、涙が出そうになった。

 追われない。怯えなくていい。明日の宿代を心配しなくていい。食べるものがないと焦らなくていい。

 ありがたい。

 本当に、ありがたい。

 なのに――胸の奥が、少し苦しかった。

 何かを失った気がする。何を失ったのかは、分からない。でも、さっきサインをした瞬間から、何かが変わってしまった気がする。

 鷹宮が帰ってくる夜まで、何もすることがない。

 スマートフォンを取り出した。充電は、さっきさせてもらった。画面を開く。

 通知がいくつか来ている。知らない番号からの不在着信。督促のメッセージ。見たくないものばかりだ。

 ――これも、整理されるのだろうか。

 「連絡先の整理」。

 あの言葉が、頭をよぎった。

 整理って、何を。誰との連絡を、どうするんだろう。

 聞けばよかった。でも、聞けなかった。聞いてはいけない気がした。

 スマートフォンを、枕元に置いた。

 目を閉じる。

 布団を被る。清潔な匂いが、鼻をくすぐる。

 温かい。柔らかい。安全な場所にいる。

 何日ぶりだろう、こんなにちゃんとしたベッドで横になるのは。

 身体の力が、すうっと抜けていく。

 安心だ。

 守られている。

 ――でも、それは本当に安心なのだろうか。

 その疑問が浮かんだ瞬間、意識が遠のいた。

 疲れ切った身体が、深い眠りの中に落ちていく。

 夢を見た。

 檻の中にいる夢だった。

 檻は金でできていて、きらきらと輝いていた。外から誰かが見ている。誰かの声が聞こえる。

 ――大丈夫。ここにいる限り、君は守られる。

 その声は、優しかった。

 優しいのに、檻の扉はどこにもなかった。

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